波乱万丈!GLAYのドラマー遍歴から学ぶプロの厳しさ

GLAYは今やライヴ動員数の世界記録を持つすごいバンドだけど、ブレイク前はドラマー探しに苦労したんだって!

永井さんがドラマーじゃないとブレイクしないかも、と言われたくらいだから、やっぱりプロドラマーの道って厳しいんだね!!

GLAYのドラマーと言えば、25年もGLAYサウンドを支え続けてきた永井利光氏。

GLAYは永井氏と出会うまで、何人ものドラマーと活動し、音楽活動の厳しさを経験してきました。

  1. TERU(結成時)
  2. SHINGO(ベースからの転向)
  3. ISO(高校生)
  4. AKIRA(正式ドラマーとしては最長期間の在籍)
  5. マイク・ベアード(デビューシングル「RAIN」)
  6. 湊雅史(3枚目のシングル「彼女の“Modern…”」)
  7. そうる透(デビューアルバム『SPEED POP』)
  8. NOBUMASA(最後の正式ドラマー)
  9. 永井利光(現サポートドラマー)

合計9名にも及びますが、それぞれのストーリーが何ともドラマチックなのです!

そこで今回の記事では、GLAYの波乱万丈だったドラマー遍歴をご紹介します。

ときには苦悩も経験しながら、それでも日本中に勇気を与える曲を残してきたGLAY。GLAYのドラマー遍歴を知り、プロドラマーの厳しさを学んでいきましょう!!

①初代ドラマーはTERU!?

GLAYは1988年、当時高校2年生のTAKUROが幼なじみのTERUを誘い、北海道函館市で結成されました。

TERUは聖飢魔IIのコピーバンドでドラムを担当していた経験があり、GLAY結成時はドラマーとして加入することになります。

GLAYの初代ドラマーは、TERUだったのですね!

TERUのドラムの腕前は?

1998年に発表された「誘惑」のカップリング曲である「 Little Lovebirds」は、TERUが作詞作曲。

さらにスタジオ版のレコーディングでは、ドラムも担当しました。

「 Little Lovebirds」 におけるTERUのドラム演奏は、シェイクビート主体のサラサラとしたサウンドで、曲のさわやかなイメージに合わせて叩いていました!

ボーカリストとしての才能を見いだされたTERU

ドラマーとしてGLAYに加入したTERUですが、すぐに転機が訪れます。

ボーカルの入っていないデモテープにTERUが何気なく声を吹き込んだところ、その歌声にTAKUROは衝撃を受けました。

そしてTAKUROの説得により、TERUはボーカリストへと転向します。

TERUの歌声は生まれ持ったものだったのですね〜!

なかなか安定しなかったドラマー

後にHISASHIを加えた高校時代のGLAYは、地元函館の人気バンドとなりました。

そして1990年の春、高校を卒業したTERU、TAKURO、HISASHIはプロを目指し上京します。

しかし函館と違い、東京でのGLAYにはコネがありません。

特に苦労したのはドラマー探しで、ドラマーが固定されなかった期間は2年以上にもおよびました。

そんな1990年の秋、GLAYはオーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演。

『イカ天』出演時のGLAYを知る人の話によると、GLAYは番組に出演してくれたドラマーの負担を軽くするため比較的ドラム演奏の容易な「無限のdeja vu」を選曲したとのことです。

②ベーシストSINGOがドラムに転向

1991年、GLAYのドラマー探しはさらに困難を極めます。

やっとの思いで見つけたドラマーも、すぐに辞めたり連絡がつかなくなったりしていました。

いざというときは、当時のベーシストSHINGOがドラムを演奏し、HISASHIがベースを演奏することで何とか、ドラマー不在のライヴを乗り切っていました。

1991年10月に作られたデモテープ『Angelus Bell』ではSHINGOがドラム、HISASHIがベースを担当しています。

③高校生ドラマーのISO

1992年、音楽雑誌のメンバー募集により高校生のISOが参加。

ISOの加入により、SHINGOとHISASHIは本来のポジションに戻ります。

しかし、高校生であるISOの生活に合わせた音楽活動というのは、プロを目指しているGLAYにとって苦しいものでした。

④AKIRAの加入

1992年6月、AKIRAが加入したことで、GLAYの苦しかったドラマー探しは終わりを告げます。

様々なバンドでヘルプをしながらプロを目指していたAKIRAはGLAYの曲に注目し「俺がドラマーになったらこのバンドはもっと良くなる」と、TAKUROに自分を売り込みました。

TAKUROはドラム経験の浅いISOに満足していなかったこともあり、AKIRAの加入を認めます。

ISO本人はTAKUROの意見を素直に受け入れましたが、厳しい決断をしたTAKUROは、ISOの家族から平謝りをさせられてしまいました。

AKIRAの加入により、GLAYの演奏力は飛躍的に向上しました。ベーシストは引退を決めたSHINGOから後輩のJIROに交代し、GLAYは着実に実力を蓄えていきます。

ヴィジュアル系ドラマーの定番を押さえたAKIRAのスタイル

AKIRAは「LUNA SEAやデランジェの影響を受けている」と公言しています。

エフェクトシンバルとロートタムを並べたドラムセットを、肌を見せない衣装で表情を変えずクールに演奏する

このスタイルは、当時のテクニカルなヴィジュアル系ドラマーの定番でした。

AKIRA脱退

実績を重ねたGLAYはYOSHIKI設立の大手インディーズレーベル「エクスタシー・レコード」に注目され、YOSHIKI自らがプロデュースするバンドとして一気に知名度を上げました。

しかしエクスタシー・レコードから課せられた厳しいスケジュールと、変化していく音楽性にAKIRAは違和感を持ち、メジャーデビュー直前にGLAYを脱退します。

⑤⑥⑦『SPEED POP』では大物ドラマーが参加

AKIRAが演奏した曲も収録されていましたが、

メジャーデビューアルバム『SPEED POP』では、

  • そうる透氏
  • 湊雅史氏
  • マイク・ベアード

など、超一流のセッション・ドラマーが参加しています。

そうる透氏は、なんと収録曲の約半数を担当しました。

⑧NOBUMASAが正式メンバーに

『SPEED POP』のレコーディング終了後、ライヴツアーでサポートドラマーを務めていたNOBUMASAを正式メンバーに迎えます。

NOBUMASAは温厚な人柄で、ドラム演奏の技術もメンバーから認められました。

無名のドラマーだったNOBUMASAは、いきなりメジャーバンドの正式ドラマーへと抜擢されたのです。

NOBUMASA解雇

GLAYのメンバーに実力を認められたNOBUMASAですが、GLAYの所属事務所は解雇を言い渡します。

そうる透氏などの超一流ドラマーを起用できるほどの力を持っている所属事務所にとって、キャリアの浅いNOBUMASAを起用することはリスクに感じたのでしょう。

「今のドラマーがメンバーだとGLAYがブレイクするのに3年はかかる」と所属事務所から宣言されたTAKUROは、断腸の思いでNOBUMASAに解雇を伝えたそうです…。

⑨永井利光氏を迎え、GLAYはブレイク

「GLAYに最もふさわしいドラマー」として所属事務所から紹介されたドラマーこそ、現サポートドラマーの永井利光氏です。

当時から永井氏は氷室京介のサポートメンバーとして知名度を獲得している、大物セッション・ドラマーでした。

永井氏はGLAYのセカンドアルバム『Beat Out!』から参加。アルバムオープニング曲「More than Love」のイントロで、いきなり存在感の大きさをアピールします。

永井氏の圧倒的な信頼感

永井氏のレコーディングに対する熱心な姿勢、演奏技術はGLAYのサウンドを確実に向上させ、「グロリアス」のヒットでGLAYは一躍有名になります。

『Beat Out!』はGLAY初のオリコン1位を獲得する作品となりました。

これらの活躍により、GLAYにとって永井氏はなくてはならない存在となり、一時は「GLAYの正式メンバーになってもらいたい」との要望もありました。

しかし、永井氏は「4人の世界観を大切にしたい」と丁重に断ります。

それからも変わらず、正式メンバーさながらの強い絆でGLAYをサポートし続けています。

まとめ:プロなら所属事務所から認められなければいけない!?

今回はGLAYのドラマー遍歴を振り返ってみました。

GLAYは力強さと優しさを併せ持つ、究極の音楽を目指し続けているバンド。

GLAYのサウンドを表現することはドラマーにとって、実はかなりの難題なのかもしれません。

正式メンバーだったAKIRAとNOBUMASAは所属事務所の意向もあり、GLAYを離れていきました。

しかし、ドラマーとしての実力はメンバーからもファンからも認められていました。

これからプロのドラマーになろうと腕を磨いているあなたにとって、GLAYのドラマー遍歴を知り、プロの厳しさを知ることはプラスになります。

今回の記事が少しでも参考になりましたら、とてもうれしいです!!